1930年に父子で開発した「横型研削式胚芽米搗精機」。当初、利市は胚芽を残して糠を削る方法に苦心していましたが、利彦は研削砥石ロールの回転速度と搗精圧力を調整することで、玄米が長手方向を軸に回転しながら、その向きを揃えていくことを突き止めました。この発見により、金剛砥石を胚芽に当てることなく、棒状に糠だけを削り取る胚芽米精米機が完成したのです。
この胚芽米精米機はまず、宇品陸軍糧秣支廠に10台設置されましたが、軍に予算がないため父・利市は無償での献納としました。しかしこのことがのちに、満州や東南アジア諸国へ多くのサタケ製精米機が輸出されることにつながっていったのです。
利彦にとって大きな第一歩となった同機の完成は、当時の陸海軍で長年の課題となっていた脚気(ビタミンB1欠乏症)の撲滅に大きく貢献しました。米が本来持っている栄養成分を残し、その力を活用することで人々を健康にする、という初代・利市の信念は利彦へと引き継がれたのでした。